建築写真とはどんなものか?

             mirutake  2010.08



建築には特有の写真作法をもって提供される建物写真があります。スナップで撮られる建物の写真とこれを区別して、建築写真と言っています。それは建築をお見合い写真のように、少しお化粧して目鼻立ちぱっちりで、誰にも解りやすく見せる写真の作法なのです。
現在では建築の専門誌から、一般住宅雑誌や一般誌の建築紹介と、かなりの広がりをもって建築が取り上げられるようになりました。素人が紹介する建築のウエブ建物写真までありますが、すぐにそれとわかる特徴のある写真のことなのです。

1)建物の垂直線が画面枠に平行
まずそれとはっきりわかる第一の特徴は、垂直線が平行に伸びており、画面が落ち着いた感じを抱かせます。これが普通のカメラでは、カメラを水平にしっかりと構えないとできないことです。ですから普通に建物を撮ったものでは、カメラを上に向ければ垂直線が上に集まっており、下に構えれば下に集まることになり、垂直線は平行線にはなりません。


  


建築写真のプロはこの垂直線の平行を、蛇腹付きのアオリのできる大型カメラとか、アオリのできるライカ版一眼レフレンズカメラとかで修正しています。
私達は普通のカメラしかないので、撮ったDATAをフォトショップで平行に直しています。
何故こんなめんどくさいことをしているかと言いますと、画面が整然と落ち着いた感じになり、建物が素直な美人に見えるからなのです。
ですが、この事の本質的な根拠は、建物の映像が、人間の目の網膜に写っている時には垂直線が上か下に集まっているのですが、脳が処理した建物の映像「認識」では、建物の柱や窓は並行線だと受け止めているからなのです。そう物の在り方の認識に合わせて垂直線を平行線としているのです。脳が平行だと思っているのに、写真の中では上に集まった垂直線では、安物の建物に感じさせてしまいますよね。写真の枠=長方形の画面がそもそも平行線ですから、これに合わせて全ての垂直線が平行になっていると、柱や建物が全て垂直線だねと脳の認識と一致しており、安心できるのでした。それは解りやすく美人にしていると言うことで、お見合い写真と言われる所以です。



  
このくらいの小さな傾きでも平行に直すと随分しゃきっと安定感が増すものですね。


2)超広角レンズ
次によくわかるのは「超」広い範囲が写っていると言うことでしょう。
まさにここも建築ならではの必要に迫られて、超広角レンズを使っているのです。建築を外部で撮る分には、後ろに下がって画面に入るようにすればいいのですが、都会では道が狭いのに高い建物ばかりで引きがありませんね。特に建物内部では人間が室内を見渡して空間を感じている広がりは、普通の広角レンズ(28ミリ)では画角が狭くて思った範囲が入らないからなのです。特に空間に「包まれた」感じという内部空間は、はっきり見ていない範囲まで人間はボーッと見ています。あるいはぐるりと見渡した範囲を一つの画面として脳が認識しているのです。その見渡しに見合った広がりの映るレンズが必要です。それが20ミリとか、15ミリとかの「超」広角レンズが必要な理由なのです。



札幌聖ミカエル教会  1961 アントニン・レーモンド
  
    28ミリの画角                            15ミリの画角


ところが超広角レンズはパースペクティブも凄いですが(普通の感覚を超えて物の前後の大きさの比例が極端になってしまう)、始めに取り上げた垂線の集まる強さも半端じゃないです。建築を実務でやっている人たちでさえこれを嫌って、自分用の建築見学記録の写真でさえ、この超広角を嫌って、普通の28ミリ程度の広角で満足しています。100人いたら、99人は超広角をもっていないのでした。却って写真趣味のセミプロ級の建築写真でない人たちの方が、超広角レンズをっもっていますね。異常なパースペクティブが面白がられるのでした。



聖アンセルモ目黒教会  1955
  



超広角も垂線を平行に直すと(フォトショップで)、かなり落ち着いた画面になりますから、それほど異常感は薄れるのですが、それでも15ミリ級ではパースペクティブ自体が凄いですから、できるだけ20ミリくらいで写した方が異常感が薄れるとは思っているのですが。ついつい安易に広くいれて撮ってしまうのでした。


3)ダイナミックレンジ
晴天に真っ白い建物とか、室内から外部の庭を眺める構図とか、ハイライトからシャドウまで広い巾が再現できることが必要です。それをデジカで再現できる明るさのダイナミックレンジが大いに問題なのです。カメラの種別(コンデジからレンズ交換カメラ)で違いますし、現像ソフトでも違いますし、複数カットを合成してダイナミックレンジを確保しようというHDRソフトまで表れています。
コンデジではここに切り込んで凄いと言われたフジのF30でしたが、白い外装の建物を晴天に撮影すると、白飛びになってしまい、外装の質感が失われてしまうのでした。フォトショップで直そうとしても質感は出てくれません。レンズ交換カメラでは少しはましで、フォトショップでシャドウとハイライトを補正するコマンドはしょっちゅう使っています。手間を掛けるのはここまでにしています。
HDRのような何枚か撮って合成というのは手間がかかりすぎますので、やってみたけどいつもとは行きませんね。



札幌聖ミカエル教会  1961
  
         一眼で撮ったまま                                       フォトショップで補正


新・根津美術館 2009
  
                                                HDR(ハイダイナミックレンジ)


4)多量写真で立体認識(いま流行の3Dではありませんが)
建築写真のアングル撮り方とは、決定的瞬間ならぬ「ベストアングル」を探すことです。今でもそうしてしまいますし、この撮り方も相変わらず必要です。建物の最高のベストアングルを探るのが建築写真を志す者としての心得でもありましょう。天候も晴れでなければ駄目と言うことではなく、曇りの方が良い写真条件になることも建築写真にはあります。明るさの幅が狭くなっているのでコンデジでも白飛びが楽になります。強い陰が出ませんので建物の形がそのまま解り、写しやすいと言うこともあります。その建物への理解やその人の建築センスによるところです。

このhpは「資料室」として始まりました。
デジカメによって多量DATAが簡単に撮れる時代になり、建築見学でも個人の資料として多量に撮られるようになりました。さらにこれを一般に公開してゆくこと、建物を詳細に撮影、一期一会の建築状況との出会いが多量の写真となっていく。ここまで見せてくれるか!という新発見。それが公開されて、なかなか見に行けない建物が、誰にも詳細に情報発信できるhp時代に感動していたのです。多量と言うことでは今までの雑誌媒体を超えているのですから。裏まで見せてもらえると言うことでも。
そしてみんなが同じように公開して、各地域の身近な建築が多量DATAによって公開されてゆく、新しい時代の建築写真を想像し始めたのです。がそうは展開しませんでした。各地域の目覚めた個人による、多量建築写真hpが始まることを願っています。

そんな中で新しい撮影法も生まれました。
ムービーを撮るように、角度を少しづつ変えながら連続カットを撮るという方法が現れました。このいくらかの角度の違うアングルでの、建物の見せる表情の違いを感じて貰いたい。このくらいの微差と思えたものが、アングル違いの存在感を伝えてきたのでした。そこに新たな意味を見つけたいと言うことでもありました。
上手く行くとこの方法によった連続カットが、建物の立体としての構成をよりよく見せてくれたり、見落としていたアングルが撮れているのでした。スライド映写と言うことも、パラオパラ動画のように、建物がどんどん雰囲気を変えながら、立体としての全貌を見せてくれるのでした。未知数をもったこれからの方法だと思う。

このように建築写真を大きく分けるなら、二つの撮り方があると言うことでしょうか。ベストアングルを探すものと、その場で気づいたチョットしたことをどんどん撮ってゆく、ツィッターの感覚か。



法隆寺宝物館 1999








写真の枚数と言うことでもう一つの観点があります。
私も若い頃には写真を撮るのに、フィルム時代なので枚数を撮れないと言うこともありましたが、それ以上に建築への浅い考え方があったと思います。
それは外観写真が1枚撮れればそれでよい、と考えていたことです。見せ場の正面の写真1枚撮れればと言うことでした。それは立面図では表れない質感を写した外観写真と言うことでした。それでその建築の全てがわかると思っていたのでした。デザインとは立面のこと。ですから図面を丁寧に書くと言うことでもありました。
でも当然ながらだんだんわかってくるのでした。
立面図では全体のプロポーションとか、面の配分というようなことはわかっても、遠眼の質感、手に触れる感覚質感や、建物に接近して行く時に、だんだん見えてくる新たな面の展開と言うことは無理なんだと気づいて行きます。それに気づいてしまうともう終わりがないという感じで、次々に内部空間のこととか、ものとしての密度とか、建築として必要な密度は限りないことに気づいて行きます。

これは現場で建物を見ることと、見たもの=気づいたことを写真に撮っておこうと言うことになりますから、カット数はどんどん伸びることになりますし、行くたびにどんどん新たに気づくことにもなります。
それはまた自分の建築の観点が変われば、そのときまた撮るしかない!と言うことでもあります。結構な枚数撮っているのだから、前の写真が役に立つはずだと思うでしょうが、そうはなっていません。新たな視点は新たな写真にしか写らないと言うことなのです。
建築を見続ける限り、終わりのない楽しみに踏み出している!と言うことなのです。どんどん気付いてゆく、とんどん撮ることになる!と言うことになっているのでした。







和銀行本店+懐霄館  1967 1975

(最新のデジタルDATAには多くの物が映っている、拡大してみてください、質感が写っている。HPではコマ切りにして見せられる。)



5)人の写り方(古典的なテーマ)
プロの建築写真というのは竣工写真であったり、雑誌発表の写真であったり、建物自体としてその雰囲気を伝えたいと考えます。ですからそこにはできるだけ建物以外入らない状態が単純ですし、安定した写真となります。そうここで建物とは違う要素として問題になるのが写り込んでしまう「人」です。
かつて建物に人を入れて撮らないのは非人間的な写真だと言われたことがありました。今となってはそう言う時代だったとしか言えませんが、生活感を排した抽象建築を嫌った発言(批判)でもありました。何とか無理しても人が生き生きしている建築写真というものを目指したのでした。

実際撮っていて群衆は建築鑑賞の邪魔ですし、画面に入ってしまった人の持つ雰囲気に画面全体が支配されますから、できるだけ人の入らないカットを撮って、後は良い雰囲気の人が入るの待っていたりしますね。ファッションビルなら上手くファッショナブルな女性が入るなら、写真が生き生きしてきますからね。



メゾン エルメス 2001 レンゾ・ピアノ




ディオール表参道 2003




6)見せ方
当初このサイトでは多量デジタル時代の到来と言うことで、多量のカットをそのまま提示していました。
もっと精選しなきゃ駄目だという批判はいっぱい貰いました。確かにそうだという思いと、みんなこの多量デジタル時代を生きているのだから、気軽に撮れてしまうカットの数に辟易している人は多いですね。けれどいくら撮ってきても、もう一度撮ってこなきゃ駄目だなこりゃあ、と言うことばかりです。そのつどの違いを感じていると言うことでしょうか。多量さを当然と使って、次はどうしようかと思っているのでした。

でも少し譲歩して簡単に10枚くらいで全体を紹介してしまう見せ方も設けました。自分たちにしても随分取っつきやすく、見やすくなりましたね。建物の全貌が解りやすくなりました。この10枚の掴みを持って100枚にアタックすれば、多量さに溺れないですむかしら。

ただ見せ方(編集)に時間を掛けないHPであることは変わらないです。じっくり精選した写真を見せる、そういう場は「けんちく探訪」として設けてあります。ここは文章を書けたとこから進めています。文章をまとめるのが大変です。
で、これらの中間として文章なしで大きな写真だけ見せるサイトもありとは思っているのですが。


7)光と影
強いコントラスト、白黒の版画のような色調、力強い光と影の造形表現と言うことでしょう。一時はこう言う建築写真も魅力あるかと思わされたものです。「光と影」と称して建築を造形彫刻のように撮っている写真集があります。私にはほとんど嘘のように思えるのです。それは白黒写真という媒体故に表れる建築の在り方だからです。そしてついにはこんなに貧しい建築表現はないと思ってしまうところまできました。

実際には、真っ黒く塗りつぶした現実というのはありえません。人の目はどんな暗がりでも自動絞りでもって見えるように明るさを調節してしまい、その暗がりがどのようになっているのか見通してしまうからです。そして同じように白飛びしたハイライトというのも現実世界にはありません。写真の画面にのみ成立する表現世界です。建築の造形性というのはマッスの集まりがどう関係しているかという空間表現のことだと思っていますので、どうしても黒つぶれは許せません。




                     国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館  2003 栗生 明    ビュフェ美術館  1969




特に現在のレンズ交換カメラなら、ダイナミックレンジも広がっていますから、晴天戸外でも、影の部分を暗くしないで見せてしまう(フォトショップ修正)ことが可能です。光と影にしないで見せて行くことが空間の理解に必要ですから。どんな太陽の位置でも問題なく撮影を終われます。ところが光と影の造形としてみせるには、それなりに光と影の配分が美しく見えなくては駄目ですので、これを見つけるのは大変です。偶然によるところも大きいでしょう。

けれどけれど、美しい光と影を見つけた時には、感動してしまうと言うことも、事実あるわけです。この誘惑に負けて、光と影で表現してしまうこともありますね、建築としては嘘だとわかっていても。それは写真芸術としての表現だということを充分感じながら。




風の丘葬斎場 1997




聖イグナチオ教会 1999

この室内は本当に暗かった。しばらく佇んだまま歩けず、目が暗がりになれるのを待った。(画面で見るときれいです。)

                                       20100905   2o14o6o7





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